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 どちらにしても、映画の現場で当然おれは一スタッフにすぎなかった。そしてその態度「スタッフにすぎない。」というのが、あちこちに出てしまっていた。本業は音楽だからと、たかをくくっていた。そういうつもりはなかったが、やはり体や表情から染み出ていたのかもしれない。おれはおれの偽装に失敗したというわけだ。つまりいくら外面だけいい顔をしていたり、相手を欺こうとしても無駄。ということを、おれはその現場で知ることになる。そもそも別におれが愛嬌がよかったり、お愛想を言うようなタイプということではない。ようは、本気でその仕事に取り組んでいるのか、それともバイト感覚のお試しとしてやっているかの違い。それを相手は感じてしまうということだ。

 そういうのは、ちょっと難しいことにぶつかったりするとすぐに露見した。単に名前を覚える人数が多すぎたり、忙しすぎたり、せかされたり、しなければいけない仕事量が多かったり。そういうもろもろの事柄は。覚悟が決まっていない偽装だらけの態度では「ちょっと難しいです。」「どうですかね。」「それはいけません。」「早すぎますね。」とか言い訳ばかりが飛び出してくる。自分を守るのに必死なのだ。いや自己弁護すると、仕事をしないわけではない。ここまではするけど、ここからはしない。ここまでの時間はするけど、ここからの時間は自分の時間。というような割り切り。ある意味で効率的な物の考え方。おれも大学に行ったし(中退したけど)、アメリカ留学とかもしたことがあって、価値観がわりと西洋的になっていたのかもしれない。

 ちょっと話が逸れる。ロックやジャズ、カントリーとかそういう音楽面で、アメリカに行った経験は限りない宝として、おれの資産になっていた。日本でいうところのアメリカン・ミュージックが、そのままアメリカではスタンダードではない。ということも知った。有名な曲はもちろん知られているが、流行の先端というのはその先にある。アメリカ人が言うところのスタンダードというのは、たとえばフランク・シナトラだったりサミー・デイビス・ジュニアだったり。アメリカ人が幼いころからテレビで見たり、ラジオで聞いたりしてきたものの中にある。日本人が表面的に聞き知ってそうだと思っているものとは違う。