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「なんで?」私は彼を見る。

「それだったら、まだ幸せなほうさ。」彼はそう言った。

「そうかな。」私は首をかしげる。

「みんな、自分を不幸だと思いたいだけなんだ。」今度は彼が持論を述べる。もちろん酒が入っていた。

「不幸自慢。」私は自分でそう言って、笑ってしまった。

「そうそう。結局そういうのって、人との比較だからな。ま、自分が嫌になったら、隣の茶色い芝を見ろって言うんだ。」彼はそう言って、再び自分の腕を持ち上げた。

「なるほど。」私はグラスを傾ける。

「おれよりひどい奴だって、いくらでもいるね。」彼はそう言って、立ち上がった。

「足が悪いとか、胃に穴があいてるとか。」私はそう言ってみる。

「そう、白血病とか、脳出血とか、肺炎とか。ガンとか。」彼はうなずいた後、トイレに行ってしまう。そういう重い病名を聞くと、私は何人かの亡くなった知人・友人たちのことを思い出す。たしかに失って初めて健康のありがたさに気づく。大したことがない結論だ。

 だから今を精いっぱい生きる?そんな青春めいたことを、この年齢になってほざけというのか。どちらにしても、私には義手の男の気持ちは分からない。だけど、彼を見てると自分の両手に対して、または健康に生んでくれた両親に対して、少しは感謝くらい言いたくなる。

「隣の芝は、茶色い。」私は彼の言葉を口にする。たしかに自分のことを気づくには、人のふりを見て自分のふりをなおすしかない。夜もふけてきた。雨も降りそうだ。義手の男の分もお会計をすませ、私は店を出た。明るいネオンが、歩いているうちに暗くなっていく。きっと明日も曇りだろう、私はそう思いながら夜道を歩き去いた。