
奥さんが貴婦人気取りだからといって、それを咎めるものはいない。若い女性たちが彼女のことをどこかで笑っていたとしても(そのなかには監督の愛人も含まれる)。それは彼女に関する事柄ではない。まるで裸の女王様(王妃様)のような生活を妻は送っていた。多少は主人の離反に気づいていたかもしれないが、経済的な補完関係にある限り彼女はそれを許したもうた。そこには西洋的な意味での「愛」というものはない。そのようなロマンチズムは、子どもを産んだときに分泌台の下に落としてきたのだ。
西洋社会においては、結婚後または出産後も「カップル」のような性的関係が続く。「母」や「父」である前に、一個の個人であり「愛人」であるというわけだ。そう考えると、「愛の人」という立場のほうが本来の女としての地位は上なのかもしれない。なぜなら実は妻だって「女」としてモテたいという気持ちがあるからこそ、社交界に出入りしているのである。虚栄心、怠慢、食欲、性欲。すべてはつながりながら回転し、そして最終的にはイカロスのように落下する。
「幸せ」というものを基準にするなら、誰が幸せか分からない。監督は幸せなのだろうか。妻は?愛人は?それぞれが苦労をしながら、それぞれの社会的かつ個人的な生活を営んでいる。ある意味で立派であるし、ある意味で不義理である。ある程度の満足があるし、ある程度の不満足もある。すべてを求めるものは、すべてを失うし、ある程度で満足できるものは「幸い」であるのかもしれない。ただし、「成長」というものを基準にするなら、それはすべて彼らの成長を促すための試練であるようだった。
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