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「芸能界なんて水商売だよ。」サラリーマンである彼女の父は言った。

「いえ、アーティストのつもりです。」彼は本気でそう言ったのだが、それが余計相手の不満を増幅させたようだった。結局彼女ともうまくいかなくなって、結婚の話しも流れた。故郷から一緒だった連中も、今は自分一人しか活動していない。みんな結婚したり、役者をやめたり、故郷に帰っていた。そんな中で彼は成功の一里塚を築いた。あるものは彼のことを称賛し、あるものは嫉妬し、あるものは憎んだ。成功と失敗は紙一重。勝利と敗北もほんの少しの差。それは運と言ってもいいし、ちょっとした粘り強さと言ってもいい。ただ彼の場合は、人に愛されるという特徴があった。人はそれぞれ自分の持ち味で生きていくしかない。それが凶と出る場合もあれば、吉と出る場合もある。彼は売れたことで、生活の拠点を六本木の周辺に変えた。また事務所も移ってしまったので、あの神田の定食屋には自然と行かなかくなった。ステージが変わると、行く場所や付き合う人々も変わってしまうものだ。よきにしろあしきにしろ。

「残念だね。」定食屋のおやじはテレビで彼を見るたびに言った。

「何が?」お客さんがおやじさんに聞く。

「彼は、よくこの店に来てたんだけどな。」おやじはテレビのリモコンを持つ。

「そうなの。有名人じゃん。」お客は合いの手を入れる。

「昔はちがったね。」おやじさんはテレビを消してしまう。

「売れたのならよかったじゃない。」お客さんは定食を食べながら言う。

「まぁ、この店のことも忘れてしまったんだろ。」おやじさんはそう言って、夜のための仕込みを始めた。

「そんなもんだよ。」お客は苦笑いしている。

「失敬だ。」おやじは悲しそうにそうつぶやいた。お客は首を振っている。

「そういえば彼結婚するんじゃない。女優さんと。」そうお客から聞いて、おやじは苦虫をかみつぶしたような顔をする。

「ま、ならよかったね。岩手のご両親も喜ぶ。」おやじはそうとだけ言って、仕込みのマグロを包丁で切った。なるべく新鮮なうちに料理してしまおうと思いながら。

「こんちは。」するとそこで店の扉が開いた。

「いらっしゃい。」おやじは威勢よく声を出す。

「お久しぶりです。」その声の主は、あの俳優である。

「どうぞ。」おやじは一瞬チラッと見ただけで、目もあわせない。

「あの、覚えてませんか。前によく。」役者はおやじを見た。

「ん?」店のおやじは首を傾ける。

「おやじさん、今話してた俳優さんだよ。」そこで常連の客が横から言う。

「あ、ああ。」そこでようやくおやじは俳優を直視した。

「ご無沙汰してます。」彼はそう言った。

「忙しいみたいだね。」おやじは笑いもせず言う。

「おかげさまで。」彼は頭をかきながら答えた。

「いいから、座りな。」おやじは何かをかみ殺すように言った。

「ありがとうございます。」ようやく彼は席につく。

「ちょうど話してたんですよ。」常連はテンション高く言う。

「そうですか。」彼は恐縮して言った。

「どうなの、実家のご両親は。」おやじはおしぼりを渡しながら聞いた。

「あ、ああ。二人とも亡くなりまして。」彼は、じっとおしぼりを見ている。

「そうかい。そうだったかい。」おやじさんはうなずいた。

「熱燗お願いします。」彼は笑顔を作って言う。

「よっしゃ。」おやじはそう返事する。

「嬉しいな、あんたに会えて。」常連は上機嫌だ。

「どうも。」彼は愛想笑いをする。それからいくばくかの時、テレビや映画の話しが続いた。そしてようやく常連は帰っていく。俳優はお客と握手をして、その姿を見送った。

「すまんね。」おやじは片付けながら言う。

「実は。」俳優は小さな声で言う。

「ん?」おやじは彼を見る。

「地元に帰ることにしまして。」彼はそう言った。

「え?地元って岩手だっけ。」おやじは眉間にしわを寄せる。

「はい。弟が。」彼は言葉に詰まる。

「なんだよ。」おやじはカウンターに座った。

「弟が病気になって。うちの実家、建築業をしてまして。」彼は思いつめた目をしている、

「なんだ、手伝いに行くっていうのかい。」おやじは聞いた。

「ええ。」彼はシンプルに答える。

「でも弟さんがよくなったら帰ってくるんだろう。せっかく売れてきたのによ。」おやじは手を振った。

「まぁ、でも、今の新しい事務所の方針ともあわなくて。潮時かなと。」彼は頭を振った。

「そうなの?せっかく。」おやじは何かを言いかけてやめた。

「すみません。帰る前にもう一度ここに来たくて。」彼は熱燗を飲み干した。

「そうだったかい。」おやじは立ち上がり、彼にもう一燗つけた。それは彼にとって懐かしくも、悲しい味がした。ひとしきり昔話しに花を咲かせ、おやじの料理も堪能する。東京のおやじの味。以前にツケで飲んでいた分も支払おうとしたが、おやじは頑なに首を振った。彼はお礼を言って、その日の分だけを支払った。さよならも言わずに、彼は店をあとにする。おやじは一人食器を片付けながら、ため息をついた。