20210905_2214252

 


 彼は岩手からやってきた。震災の時にはもう東京にいた。故郷とは三日間連絡が取れず、もしもの覚悟をした。だが四日後に両親から連絡があった。

「おまえ、帰ってこい。」父はそう言った。

「そんなこと言われても。」彼は口ごもる。

「いつまでそっちにいる気だべ。」弱々しい父の声を聞いてると、彼は何も答えられなくなってしまう。

「もうちょっと。」そうとだけ言って彼は電話を切った。下北沢から数駅の小田急線沿いに彼は住んでいた。東京に来たのは、俳優になるためだ。もともと岩手でやっていた劇団仲間が上京しようと言ってきた。彼もその波に乗ったまでだ。東京で成功するのは簡単なことではない。ほとんど食いもせずに捨てられてしまう廃棄食品みたいなもの。あっという間に期限は切れてしまう。もし冷凍したとしても、いつ食べてもらえるかわからない。それは悲しいことだ。

「でも、やってることが楽しいから。」そう言って彼は演技を続けた。事務所にも所属していたが、社長は「男は三十から。」などと言っていた。彼もそれを半ば信じていた。そう簡単に売れるわけがないと思っていた。それに易々と売れても、実力がなければ飽きて捨てられるだけだ。

「といっても、三十になっても売れない奴は売れないぞ。」神田の定食屋のおやじにそう言われた。

「はい。」彼は卑屈に身を丸めて、昼から日本酒を飲んだ。

「お前さん、兄弟はいるのかい。」おやじさんはそう聞いた。

「え、はい。弟が一人。」うつろな目で彼はそう答える。

「岩手か、東京か?」おやじは料理を作りながら聞く。

「はい、岩手で。建築業やってます。」彼はそう言う。

「弟のほうが立派じゃねぇか。」おやじさんにそう言われると、彼はうなだれて笑った。

「まぁ。」もう一杯飲みたいな、と彼は思う。

「でも、両親が顕在なら親孝行も考えないとな。」おやじさんはそう言いながら、肉じゃがを彼の前に置く。

「これは。」彼はその肉じゃがを見つめる。

「食べな。サービスだよ。」神田のおやじはそう言った。

「ありがとうございます。」彼は鼻をすすって、その肉じゃがを味わった。上品な味で、故郷の肉じゃがとはちょっと違う。それでも肉じゃがは肉じゃがだ。家庭の味がする。彼は目を閉じて味わった。

「売れるといいな。」おやじはさらに日本酒を一本つけてくれた。

「すんません。」彼は頭を下げて、コップで冷酒をゴクリと飲んだ。

「がんばれよ。」おやじはそうとだけ言って、しかめ面を崩しもしない。それから何年も彼はその店に通った。家から近いというわけでもないから、いつもではない。ただ事務所が近かったのだ。そして彼の東京生活を十年も過ぎる頃、ようやく風向きが変わり始める。年齢も三十半ばになっていた。