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「あなた、もっと愛想よくしないとダメよ。」あの人は言った。

「はい。」彼女はそれに対して、うなずくしかない。先輩と後輩の関係。そもそも現場に呼んでくれたのは、その人なのだ。その人の方が、業界のことをよく知っている。ここぞというポイントを押えて、しっかり仕事をするのは彼女も認めていた。

「でも愛想よくするのと、仕事を早く丁寧に仕上げるのってどっちがどうなの。」彼女は誰に問いかけるでもなく言った。

「どう、でしょ。」それに対してハンチング帽の後輩は正解が分からない。

「仕事が第一でしょ。愛想よくするって、カフェの店員じゃないんだからさ。」そう彼女は言った。しかし、カフェの店員じゃなくても、どんな仕事でも愛想よくするのはサービスの一つじゃないだろうか。そんな気がその後輩にはした。

「いやね、分かりますよ。」そこで渋い声がする。

「え?」女はそこに運転手がいるのに初めて気づくような感じで、改めて前を見た。車は少しだけ進み始めている。

「タクシーの運転手でも、やたら愛想よくしてる奴がいるんだ。」運転手は江戸っ子みたいだった。

「はい。」さっきまで喋りつづけていた女は、ちょっと虚を突かれたようだった。

「でもね、タクシーは運転が一番大事だろ。ちがうかい?」相手は女を見ずに言う。

「ええ。」彼女は後輩を見たが、後輩の女も少し驚いて首を振っている。

「それなのに愛想よくするのが一番みたいな、そんな奴がいる。あれは許せないね。」そう運転手が言うのを聞きながら、女は自分の言ってることが運転手のそれと同じなのか距離を測った。

「そうなんですね。」そう女は言うしかない。

「こないだも、村田さん、あんたもう少し愛想よくしないと客つかまらないよ。だって。余計なお世話だよ。」と運転手は言った。そこで女は初めて運転手の名前が村田であると確認する。

「そうですよね、余計なお世話ですよね。」女はさっきの自分の話しとつながることを確認し、うなずいた。

「でもさ、考えてみると。今って不景気なご時世だから、そいつの言うことも一理あるのかなとはね、思ったわけですよ。」そう運転手は言い出した。

「はぁ。」思わぬ展開に、女が眉間にしわをよせるのを後輩は見た。


「多少の御愛想というのは、仕事というか、コミュニケ―ションには必要なのかもなって。いや余計なことですが、わたしもこの歳で妻と別れまして。」運転手はさらに自分のことを語り出した。

「そうなんですか。」女は少し運転手に興味を持ったようだ。

「ええ、もうちょっと優しくしとけばなーなんてね、今になって思うわけです。後の祭りですが。」そう言うと、運転手は鼻をすすった。

「コミュニケーションかぁ。」女も少し考えるところがあるようだ。

「ほら、だからわたしもこうやって余計なお世話だと思いながら、話しているってわけです。すみません。」そう運転手に言われて、ようやく女もどこか胸が納得するものがあった。

「あの、これ。」そこで後輩の女が、ハンカチを前に差し出した。

「ありがとうございます。」運転手はそれをちょっと受け取って、運転しながら目頭を一瞬押さえた。そしてそれをすぐに返した。

「大変ですね。」女は絞り出すように言った。

「ま、その、こちらのかわいいお嬢さんも、さっきから黙って聞いておいでで、中々偉いなと。」そこまで言うと、さすがの運転手も言いすぎたかと思って黙った。ただ、そこで女も後輩の表情の変化に気づいた。さっきまでは誰にも気に留めてもらえず、死んだ魚のような顔をしていたのだ。それが今ちょっと注意を持ってもらえるだけで、彼女の瞳が大海で泳ぐ魚みたいに潤んでいる。それで女はそれきり黙ってしまった。少しの気づき、そして渋滞の解消、ストレスの発散。そんなことが都会の夜の道、見知らぬ者の間で行われている。運転手も、後輩の女も皆が黙る。タクシーは前進し、首都高を降りた。そして渋谷までやってきて、女が料金を払い領収書をもらう。さっきまでの会話はなかったもののように、無機質なやり取りだけが行われる。そしてスクランブル交差点の手前、信号が点滅する中をタクシーも女たちも波のように去っていく。