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 今日もこれで終わりだと、彼は何回思ったことだろう。そして何回その仕事を辞めようと考えたことだろう。それでも頑張ってこれたのは、妻と子どもを養うという使命があったからだ。それに友の存在が時として彼を支えてくれた。友人は多いほうではなかったし、仕事柄一人になることの方が多かった。ただ唯一といっていい親友が、高校からの同級生だ。

「どうだ仕事は。」同級生はお酒を飲みながら、彼に聞いた。

「こっちはサラリーマンだからな。」彼はそう言うと笑った。

「サラリーマンの方がラクだよ。」同級生は看板屋を営んでいた。それは親から継いだ仕事だった。少しのプライドはいともたやすく粉々にされてしまう、そんな職業だ。

「そうかもな。」小さい店だからいろいろな人に頭を下げて、利益と給料が直結する。そんな話を彼もよく聞いていた。

「せっかく作った看板も、あっという間にクズ同然の扱いだ。」同級生はそう言うと、ビールを飲み干した。

「クズか。」彼はそう言って、頭を振った。今日仕事で、彼も上司からクズ扱いされたばかりだった。仕事は丸の内の商社である。荒々しい社風で、体育会系のノリが残っている。彼自体は元々そういう人間ではないので、入ったときから少し違和感は感じていた。それでも対応できるだけのエネルギーと気概が彼にはあった。東京の荒波にも負けないだけの強い胆力というのだろうか。今まで数多くの先輩や上司からひどい扱いを受けても、彼はくぐりぬけてきた。

「よくやってられるな。」同級生は新人だった頃よくそう言って、飲みに付き合ってくれた。

「ま、奴隷だからな。」そう言うと彼は自虐的に笑った。

「お客様は神様ですか?」友達はそう言ってお酒を飲む。

「ああ、日本ってな。」彼の視線は海外に向いていた。日本から抜け出したら少しはマシになるんじゃないだろうか、そう考えたのだ。

「お前、英語とかできるのか?」同級生は聞いてくる。

「いや、勉強中。」彼は高卒から会社に入ったので、たたき上げといっていい。その分学閥や出世街道からは遠く離れていた。それを疎ましく思うこともあったし、実際大学出のヘラヘラした奴らには負けたくなかった。

「よくやってると思うよ。」そんな彼のことを同級生は慰めたり誉めたりしてくれた。

「我ながら、そう思う。」彼もうなずいて、毎日の憂さ晴らしのようにお酒を飲んだ。

「会社の人とも飲みに行くんだろ?」同級生はそう尋ねる。

「ああ、たまにな。」その場では内心を打ち明けるような危険な真似はできない。

 どこでどう話しが回って自分の首を絞めるはめになるか分からないのだ。彼が自分の心を解き放つのは、同級生を前にしたときか、家でくつろいでいるときくらいのものだ。妻も同じ高校の同級生で、だから彼ら三人は知り合いだった。結婚する前にはダブルデートのようなこともしたし、結婚してからもよく三人で遊びに行った。子どもが生まれてからも同級生を家に招待して、みんなでゲームをしたりした。一方で同級生はいつまでたっても結婚はしなかった。