「お前は舞台度胸って言葉を知ってるか。」と父は言った。

「度胸?」と娘は父親を見た。

「うん、人前で演奏するための勇気。」と父親は言って、マイクやアンプを買ってきてくれた。それがその年の彼女の誕生日プレゼントだった。初めて駅前で演奏するのは、とても勇気がいった。

「でもさ、女の子が駅前で歌ってたら、みんなどう思う?」と父親が聞いた。

「バカ?」って娘は答えて、自分で笑ってしまう。

「ちがうよ。かわいいって思うし、みんな勇気あるなって思うよ。」と父が答える。

「そうかな。」と娘はうつむいた。

「それに仕事帰りに駅まで誰かが歌っててごらん、きっと癒されるよ。」と父が言ってくれて、それが彼女の背中を押した。できるだけ精いっぱい、彼女は歌おうと思った。

20210905_2214252


 最初はとても小さな声で。だけど、彼女は意外にも舞台度胸があるほうだった。内気に見えるのに、やるときはやる性格だった。周りの友達はそのことにびっくりしていた。

「まさか、あんたが?」って言われた。だけどすぐに、「じゃあ応援しに行くね。」って言ってくれた。彼女が駅前で歌うときには、周りに人だかりができるようになった。そして人々は足を止めた。もちろんすぐに立ち去って行く人の方が多い。けど彼女は自分の歌を聞いてくれる人がいるだけで、嬉しかった。これが自分の居場所なんだと感じることができた。それは今までどこにも感じたことがないことで「あたしでもやっていいんだ。」と感じることができた。それまでは人からの視線を避けて生きていた。でも歌を歌いはじめることで、自分も人を勇気づけることができる。人を喜ばすことができるんだと彼女は知った。自分が一歩踏み出したとき、周りの人はその姿に感動するんだと彼女は知らされた。事務所からデビューできるかも分からない。たとえデビューしても、プロとしてやっていくのはそう簡単なことではないだろう。それでも町で歌を歌う喜びに変化はない。なんと言っても彼女はまだ十代なのだ。彼女の片手には希望、もう一方の手にはギターが握られている。

 しかし現実はそんなに甘くなかった。ある時彼女は事故にあってしまう。彼女は片手を失った。そしてギターを二度と弾けないようになる。

「どんな時でも前を向くんだ。」と父に言われて、娘は目を閉じた。未来に向かって開かれていた彼女の可能性が閉じてしまったように。

「あなた。」母親は父親に声をかける。娘を気遣って。

 ギターを手に取れない悲しみ。片手を失ったショック。すべてのものをプラスに変えるにはどれくらいの時間が必要なのか。もう彼女の歌を駅前で聞くことはできない。だけど、彼女は歌を忘れてはいなかった。やがて出会うであろうギター弾きの彼とともに、もう一度再出発するのはそれから十年以上も経ってからのことである。試練は乗り越えるためにあると、彼女の姿に人々は今一度感動する。しかも、それは十代の時よりももっと多くの人に、勇気を与えた。一回失ったものから、ゆっくりと芽が出始めたのだから。