トランペット奏者がマイルスの曲を吹いていた。それは心地のいいものだったが、少しの寂寥感を私にもたらした。昔は嵐のような日々を過ごしたが、東京で雑誌の編集の仕事をするようなって生活は安定するようになっていた。そして平日であってもバーによって一息つくのが、一つの習慣になっていた。少し前には結婚する予定だった女性とちょっとゴタゴタがあり、彼女は結局逃げ出してしまったのだ。今は一人阿佐ヶ谷のジャズバー・カクタスローズでジントニックのグラスを傾ける。そしてすべての混乱のあとに、こうした静けさがやってきた。

グッバイ


  そんなとき彼がやってきた。一緒にいたのはキレイな女だった。どこかで見たことのある顔だと思ったら、先日バンドの取材をしたときにいたベーシストだった。向こうは私に気づかず、彼女とカウンターに座った。私は一人の時間を楽しんでいたし、向こうも連れがいるのだからそっとしておいたほうがよさそうだ。だがしばらくすると向こうの方から私に近づいてきた。

「どうも。」と彼はやってきて、私の前で会釈した。

「先日は。」私も挨拶をする。

「覚えててくれてました?」少し笑顔で彼は言った。

「もちろん。」そう私は言って、愛想笑いをする。

「ちょっといい
ですか?」彼は私の前の席に座る。

「お連れさんはいいの?」と私は向こうにいる女性を気にかけた。

「ええ。」と言って彼は笑った。わりと好青年。ちょっとひねくれたところがありそうなのはご愛嬌。

「どう、バンドは?」と私は聞いた。共通の話題といえば音楽しかない。

「いえ、ぼくは助っ人やから。」と彼は関西弁で話した。

「ああ、そうだったね。」と私は言う。

「どこかちゃんとバンドとか入ったほうがいいですかね?」と彼は聞いてきた。

「そうだな。」私は少し考えてみる。雑誌の関係でいくつかバンドや音楽関係者は知っていた。

「よければ紹介してもらえませんか。どこでもいいんです。できれば、ちょっとジャズっぽいほうがええんかな。」と彼は言う。

「プロってこと?」と私は一応尋ねる。

「稼げるにこしたことないけど。」と彼は独りごとのように言った。

「うん。」私はもう一度頭の中を整理してみる。

「いえ実は仕事がなくって。」と彼は言う。

「うーん。」若くて有望な青年が困っている。助けてやりたいという気持ちはやまやまだ。

「難しいですか?」と彼は自分から言った。

「そうだね。ベースは、なかなか。」と私は本当のことを言った。

「ですよね。」と彼は言って、あきらめたような表情になった。

「でも、もし何かあったら知らせるよ。」と言って、私は彼に改めて名刺を渡した。別に無下にするつもりもない。

「また何かあれば連絡させてください。」と返事して彼は去っていった。去り際に「お願いします。」と頭を下げて。おそらく名刺も持っていないんだろうなと私は思った。向こうにいる彼女がこちらを気にしている。トランペットの演奏はもう終わっている。私は黙ってグラスを傾けた。カウンターの二人は、少し話していたがちょっともめているような雰囲気もあった。

「痴話げんか。」私はつぶやく。つい最近まで私にも似たようなことがあったので、他人事にも思えなかった。でも若い彼らを見ていると、まだまだ未来があるように思えた。それはクリスマスの前のことだ。雪は降っていなかった。十二月にしては寒い冬だった。

 私は年末をゆっくり過ごし、年明けからまた仕事に精を出した。いくつか抱えていた雑誌もあったし、記事も書かなくてはならなかった。そうしてせわしなく過ごしていると、いつものバーに行く時間さえなかった。仕事先で以前に取材したあのバンドと出会ったが、ベースの青年はいなかった。

「彼はいないんだね。」と私はバンドメンバーに尋ねる。すると彼らは不思議そうな顔をする。

「ほら、あのベースをやってた彼、Kくん。」と私は言った。

「あれ、知らないですか?」と彼らは顔を見合わせる。

「なにが。」と私は彼らの様子を見ながら聞く。

「亡くなったんです。」とメンバーの一人が言った。

「え?」今度はこちらが聞き返した。

「亡くなった?Kが。」私は信じられなかった。

「はい。」とシンプルな回答しか返ってこない。

「だって先月まで彼は元気そうで、阿佐ヶ谷のバーでも会ったりしたんだけど。なんで?」と私は聞く。

「そうですか。あれ、自殺だよね。」と彼らはお互いに聞いている。

「え?自殺。」私は愕然とする。

「中央線です。」とメンバーは言った。

「そうか。」私にはそれ以上言葉は見つからなかった。

「残念です。」と彼らも悲痛な表情になった。それはそうだろう、私よりもよくKのことを知っているはずなのだ。

「うん。」と言って、それから私は再び仕事の話しに戻った。でも帰り際に、もう一度メンバーの一人が私の元にやってきた。

「そういえば、連絡先。」と彼は私に聞いてきた。

「え、名刺?」と私は彼に名刺を渡そうとする。

「いえ、教えてもらったんです。」と言って、彼が出してきたのが私の名刺だった。

「あれ、渡したっけ。」まだ要領を得ない私は、事態を飲み込めないでいる。

「彼が、Kがこの名刺あげるって。」と彼は自殺した青年の名前を出した。

「あ、ああ。」私はようやく、バーで渡した名刺を思い出した。

「一応言っておこうと思って。」そう言って彼はその名刺を私に返す。

「いや、あげるよ。」と私は答えた。

「いえ、実は前にもらっていたので。二つもあるのもあれだし、返そうと思って。」と彼は言った。

「うん。」と言って、私は自分の名刺を受け取った。別に返さなくてもいいのに、と思いはしたが。

「また何かあれば連絡させてください。」と彼は言って去っていった。私にはその一言がひどく気にかかった。そう、死ぬ直前の青年に私が言った言葉だ。でも彼は私の名刺を他人に渡していた。もちろんそれは単に雑誌関係者(私)をメンバーに紹介するという意味だったかもしれない。でも、もしかすると彼は希望を失ったのではないだろうか。たまたまバーで会った東京人に、冷たくあしらわれたと思ったのではないだろうか。いや、それは考えすぎだ。私はちゃんと名刺を渡して「いつでも連絡してくれ。」と言ったはずだ。私はその日、一日いい気分ではなかった。人が一人死んでいるのだ。いい気分なわけがない。しかも中央線は私がいつも利用する電車だった。しばらく私はそのことが忘れられなかった。

 ただ、すべてがそうであるように時間とともにその事実も風化していく。ここは東京、すべては忙しく動いている。しばらくして、私は久しぶりにあのジャズバーへ行った。すると普段は気づかない空気の変化に気づいた。以前のような親しげな感じが消えていたのだ。いくつかの心の揺れ。そして何かが脳裏に染みついていた。それはあのトランペットの音色であり、青年の表情であり、女性とのケンカの様子。でも、私にはもう何もできない。ジントニックをいつものように注文すると、いつもの席から一つずれて横に座った。双子のバーテンは何も言わず、グラスをテーブルに置く。私はただジャズの音色に身を任せ、グラスを傾けた。